4月14日
さらばモロッコ。そして再びパリへ・空港へ
午前7時30分頃に目を覚ます。今朝はあの悪夢(?)を見ることはなかった。
本日は移動日。モロッコ滞在は10泊11日(砂漠には8泊9日)。とうとうこの地を後にする日が来たのだ。
フライトは12時45分だが、9時30分には空港行きのチャーターバスが迎えにくるらしい。
荷造りは昨晩終わらせていたので、身支度のみを整える。
腕時計をつけようとした際、ふと手首の日焼けに目がいく。
何度見ても冗談の様な焼けあとだ。半指グローブ、腕時計、長袖のスポーツシャツ。
それら装備品の僅かな間のみが盛大に焼け焦げたのだ。遠くから見れば腕時計か何かしているように見えるだろうな。
画像[添付画像。14日 焦げ目.jpg]
全ての荷物を持って1階に行き、それらをロビーに預けてレストランへ。
今朝も外のテラスでパンとコーヒーをいただく。
画像[\全画像\Ouarzazate\IMG_4165.JPG]
食事後、ロビーで待っているとすぐにチャーターバスがやってきた。
ワルザザートに来たときと同じく幾つかのホテルの選手が相乗りになるようだ。
また、空港での混雑緩和のためにフライトも恐らく国単位かゼッケンナンバー区切りで便分けされているようだ。
パリを発つ日、オルセー空港で一緒だったなという選手がちらほらいたので恐らく同じメンバーなのだろう。
バスは立ち乗りまで発生するくらいぎゅうぎゅう詰め。たくしょうがねえなぁなんて思っていたら、動き始めてから後ろにバスがもう1台あったことに気づく。やれやれだぜ・・。
さて、ワルザザート空港は市内から非常に近い。近いというか市内にある。寄り道しなければたぶん車で10分くらい。
近くて文句を言うわけにはいかないが、なんだか拍子抜けである。
画像[\全画像\Ouarzazate\IMG_4169.JPG] ※画像が横向いてるかもです
さっき乗せたばかりの荷物を降ろしていると出入国のカードが回ってきた。入国時に炎天下の動かない入国審査の列で書かされたのと同じものだ。
あのときは事前に用意しておいた記入の手引書をもとに、ささっと書いて皆に手引書を回したのだ。
だがあの後、手引書は行方不明となった。ゆえに今回は自力で書かなければならないので出入国カードの解読を試みる。
画像[添付画像。14日 出入国カード.jpg]
分かるわけがない!
フランス語の標記もあるのでなんとなくは分かるのだがやはり不安だ。結局内容が分かる方のカードを拝見させていただく。やれやれだぜ・・。
カードを書き上げて空港内に入る。む?そういえば成り行きとはいえ結局また外で書いていたことに気づく。
出発窓口は4つ。すでに長蛇の列。・・・これフライトに間に合うんだよな?まあチャーター便だし大丈夫か。※写真提供F岡さん
画像[添付画像。14日 出入国待ち.jpg]
このたっぷりある待ちの時間を利用して、昨晩書いたメモを配り、また連絡先を教えてもらったりした。
このとき56番テントのS村さんやOさんにFacebookを始めてみてはどうかと勧められる。
Facebookではすでにサハラマラソンのコミュニティができているらしく、ここにいる多くはそれを利用して事前に情報交換などをしていたらしい。
私はSNSの類いを苦手とし、アカウントなど一つも持っていなかったのでちょっと考えてみますと生返事する。
ともあれ、そんなことをして出発手続きを待っていると、なんと”彼”が現れた。
そう!
パトリック・バウワー氏である!
画像[\全画像\Ouarzazate\_DSC0353.JPG]
せっかくなので一緒に撮っていただきました。私の顔のむくみも大分とマシになりました。
どうやら我々を見送りに来てくださったらしい。本当に身軽だなこの人。
選手達と記念撮影をしていたが、いつの間にやら姿が見えなくなっていた。さようなら、パトリック・バウワー。
さて、たっぷり1時間程待って窓口に到達。処理はちゃちゃっと終わったのだが、スーツケースの重量の数値を見て驚愕する。
い、行きより重たくなっている・・。山ほど持ってきた食料はほぼ全てゼロになっているはずなのにである。
まあ心当たりはある。1.5Lのペットボトル一杯に詰まった砂とデザートローズ43個(さっき空港の店で追加で1個買った)が原因だろう。
重量制限にはなんとか引っ掛からなかったので問題なし!
その後の出国手続きはすんなり終わり、搭乗口で機材到着を待つ。まあ搭乗口はひとつなんですけどね。
広いロビーでみな思い思いに過ごす。とても和やかな雰囲気。完走Tシャツを着ている選手がけっこういる。
やがて轟音とともに我々が乗る飛行機が到着した。※外部リンク
正面の扉が開き、チケットを係員に見せ外に出る。ここもまた歩いて飛行機まで行くスタイル。
画像[\全画像\Ouarzazate\IMG_4173.JPG]
画像[\全画像\Ouarzazate\IMG_4176.JPG]
席に着き、出発まであと5分となった頃、見覚えのある紳士がやって来た!
そう!
パトリック・バウワー氏である!!
画像[\全画像\Ouarzazate\IMG_4178.JPG]
いつの間にか消えたと思ったらこのタイミングで再登場である。
機のマイクを取って我々に別れの挨拶を述べてくれた。
このホスピタリティ性・・・本当になんという主催者であろう。
改めて思った。憧れ、そして目指したのがサハラマラソンで本当によかったと。
これ程までに愉快な時を過ごせたのは、この大会に素晴らしいホスピタリティ性があったればこそ。
つまり何百人ものスタッフとその長であるパトリック氏の努力に他ならない。
彼らに敬意を表し、ここに大会終了後に発表された今大会のデータを記載する。
参加者数1,029名
• 30%のリピーター
• 70%の外国人(ホスト国であるフランス人以外)
• 30%のフランス人
• 14%の女子
• 45%のベテラン
• 30%がチームエントリー
• 10%の歩く人
• 90%の走って歩く人
• 14km/hr: 平均最大速度
• 3km/hr: 平均最小限の速度
• 最も若いランナーの年齢: 16
• 最も高齢なランナーの年齢: 79
• コース上の130人のボランティア
• 全体で450人のサポート・スタッフ
• ミネラルウォーター120,000リットル
• 300のベルベル人とサハランテント
• 120台のオフロードカー
• 2つのヘリコプターと1つのセスナ飛行機、
• 8機の「MDSスペシャル」コマーシャル飛行機、
• 25のトイレ
• 4匹のラクダ
• ゴミを燃やすための1台の焼却炉トラック
• 環境に配慮し、レースを安全にする為の4つのクワッド
• 52人の医療スタッフ
• 6.5キロメートルの絆創膏、2,700セットのハイドロコロイド、19,000枚の湿布
• 6,000の鎮痛剤、150リットルの殺菌剤
• 1台の編集バス、5台のカメラ、1つの衛星画像ステーション
• 10台の衛星電話、30台のコンピュータ、ファックスとインターネット
• そして、ほんの少しの狂気 …
我々選手のためにこれ程の人とモノが動いていたのである。
ありがとう、パトリック・バウワー。
ありがとう、サハラマラソン。
本当に来てよかった。心からそう思う。
画像[添付画像。14日 パトリック.jpg]
でもほんの少しの狂気だけはないわ。どこがほんの少しやねん!!
・ただいま、パリ
飛び発った飛行機はあっという間にアフリカ大陸を離れ、ドーバー海峡を抜け、もうすぐそこにはヨーロッパ大陸が見えている。
この砂の大陸を再び訪れることがあるのだろうか、来るとすればいつになるだろうか。そんなことを考えていた。
飛行機はオルリー空港に到着し、行きと同じようにチャーターバスに乗り込み、市内にあるホテルを目指す。
多くの日本人選手は元いたホテルへ再び宿泊するが、ここでお別れとなる方もいる。彼らと握手を交わし、日本での再会を誓い合う。
高速道路を走るバスの窓からパリの街を眺めていると不思議な感覚に陥った。
フランスは日本と同じ所謂先進国である。モロッコを卑下するわけではないのだが、自分の出身国と同程度の文明度に接することで、
”戻ってきた。帰ってきた”と、そんな思いが湧き上がる。妙に落ち着くのである。Fさんにそう話すと彼も同意を示した。
バスは17時頃にモンパルナス駅近くのコンコルドホテルに到着。10日前に出発したあのホテルだ。
濃密な時間を過ごしたせいだろうか、たった10日だがとても懐かしく感じる。
部屋はツインで、ルームメイトは先の宿泊と同じく東京のK和田さんだ。
K和田さんにチャリティーステージの朝に撮影した完走者の写真データをFacebook上にアップしてくれないとお願いする。
彼は快諾してくれたが、どうせなら自分のアカウントを作ればいいのではないかと勧められる。う~ん、どうしよう。
食事の約束の時間が迫っていたので、とりあえず保留してロビーに赴く。
食事は同じテントのK池さん、F岡さんと。店を探しに行く途中で他の日本人選手に一緒に行こうよと誘われたが断る。
なんとなくなのだが”寂しがり屋の一匹狼三人衆”水入らずで最後の宴を楽しみたかった。
表通りに面した小さなカフェを見つけ、そこでサンドイッチ類とビールでささやかな打ち上げを行う。
3名とも心底疲れており、もう砂漠は懲り懲りだねという話で盛り上がる。
明日は私とK池さん昼の同じ便、F岡さんは夜の便で日本への帰路に発つ。
帰り道、シャルルドゴール空港行きのバスの乗り場をK池さんに伝える。私は所用があって一緒に移動できないのだ。
ホテルに着き、2人と別れる。F岡さんとはここが最後だったが、どうせまた日本で会う確信があったので簡単な別れで済ませた記憶がある。
部屋に戻りルームメイトのK和田さんにFacebookのアカウントの作り方を教わる。件の写真は、整理した他の写真と一緒に帰国後すぐにアップした。
今まで敬遠していたが、S村さんが「 名刺みたいなものと思えばいいよ。 」と言っていたことを思い出し、思い切って始めてみることにしたのだ。
始めてみて驚いたのは、8割以上の日本人選手がアカウントを持っており、更にサハラマラソンのグループが存在したことだ。
グループ内では装備品や大会関連の情報交換が頻繁に行われていたようだ。14ヶ月に亘りずっと1人で頭を悩ましていた自分には軽いカルチャーショック・・。
まあ誰も頼れず、独り悩んだり試行錯誤を繰り返したのも思い起こせばよい経験であった。このグループの存在を知らなかったからこそ道中を大いに楽しめたとも言える。
今はここで出会った仲間達との消息を知れる手段を得れればそれでいい。さっそく日本選手団や爽やかサミュエル、凸凹コンビらに友人申請を送る。
スーパーマーケットで購入したスナックを齧りくつろぎながら静かに夜を過ごした。
4月15日
・最後の目的 そして日本へ
いよいよ日本へ向けての旅立ちだ。フライトは13時35分、シュルルドゴール空港発。
観光をする気も時間もないので、朝食を済ませ朝一でホテルを出発する。
空港へはモンパルナス駅近くのエールフランスバスに乗れば話は簡単なのだが、そうはいかない。
この旅の”最後の目的”を果たすため、モンパルナス駅のメトロ13号線ホームに向う。
自動改札でひと悶着起る。切符を入れ、引いていたスーツケースを通過させる際にゲートが閉まってしまいサンドイッチに。閉まるのがちょっと早すぎやしないか?
スーツケースを抜こうとするがゲートのパワーが強力すぎて上手くいかない。と、そこに1人のパリジェンヌが現れ、親切にも脱出を手伝ってくれた。
2人がかりでなんとか引き抜き、お礼を言うと彼女は笑顔で去って行った。5年前スリによって少しパリが嫌いになっていた件はこれで水に流すことにする。
無事13号線の電車に乗車し、途中1号線に乗り換える。その電車の中で私の隣りに立っていた若者が、私のバックパックを指差し「 ブラボー 」と賛辞を贈ってくれた。
バックパックにゼッケンを付けていたのでその大会のロゴを見たのだろう。ホスト国だけあって、サハラマラソンはフランスでは有名なようだ。
ゼッケンはバックパックを洗濯した際に一度外したのだが、今日この後の”最後の目的”のために再装着したのだ。
やがて電車がシャルル・ド・ゴール=エトワール駅に到着。
階段を上がり、外に出ると”最後の目的”が威風堂々とそこに在った。日本でも”凱旋門”としてお馴染みのエトワール凱旋門である。
実はエトワール凱旋門付近からもシャルルドゴール空港行のエールフランスバスが出ているのだ。
日本にいるときこう考えた。
「 首尾よく完走した暁にはエトワール凱旋門から凱旋して帰ろう。 」
これがこの旅の”最後の目的”だ。
尚、当然この目的には記念撮影が含まれている。ゼッケンを装着しているのはそういう訳だ。
私の好きなシャンゼリゼ通り方面からの写真にしようとロータリーを少し歩く。そして都合よく記念撮影をしている日本人カップルを発見。しめしめ。
カップルに「 よろしければお撮りしましょうか? 」と親切面をして近づく。是非お願いしますという爽やかな2人。
デジタルカメラを受取り、エトワール凱旋門をバックに何枚か撮影を行う。
カメラを返すと、彼氏の方が私がかけたと同じ言葉を返す。待ってましたと心で小さくガッツポーズをし、バックパックから取り出していた一眼レフカメラを手渡す。
完走メダルを首にかけ、バックパックのゼッケンを正面に向ける。そのときの写真がこちらだ。
画像[\全画像\Ouarzazate\_DSC0357.JPG]
めっちゃ逆光である。撮影してくれた彼も気づいていたようで、「 フラッシュ焚きましょうか? 」と親切に申し出てくれたが何となく断ってしまった。
何にせよこれでやろうと考えていたことは本当に全てやり尽くした。これで終わり、あとは帰るのみだ。
カップルにお礼を言い、エールフランスバスの乗り場に向う。
バスは30分に1本運行されている。幸いすぐにバスが来たので料金を運転手に支払い乗車する。
空港までの約1時間。指定のターミナルに着き、窓口に赴く。到着が早すぎたのか、まだ受付を行っていない。
そりゃそうである。だってまだ9時過ぎだ・・。13時台の出発なのでいい迷惑であったろうが”いだち”なので仕方がない。
窓口近くの椅子に腰掛けてボーっとしていると、突然警察官が多数現れ、辺りの封鎖を始める。
なんだなんだと驚いたが、どうやら要人の空港利用があったようだ。その様子を脇目で観察する。いい退屈しのぎになった。
画像[\全画像\Ouarzazate\IMG_4185.JPG]
10時を回り、やっと受付が始まりそうになった頃、日本人選手4、5名が現れる。どうやら同じ便のようだ。
そのうち沖縄のEくんはサハラマラソンのスタッフが着用していたベストを羽織っている。
驚いている私に彼はしたり顔で「 ワルザザードで売っていたんです! 」と。
どうやらスタッフの一部が不要になったベストを店に売り、それを彼が買ったようだ。正直ちょっと欲しいななんて思ってしまった。
手続き完了後、別便の56番テントのH田さん(スピーカーを携え走ったあの彼)を交えてカフェでくつろぐ。
H田さんはこの後、日本に直帰せずヨーロッパのある国にいる彼の友人のところへ向うという。しかも到着後の移動は現在ノープラン。
サハラマラソンに出るような人はエネルギッシュだなぁとつくづく感じる。そういえば彼の”プロレスラーを一発で見分ける方法”の話は大変面白かった。
話といえば、このとき一緒にいた日本人1位のS村さんが仰っていたことが強く印象に残っている。
「 サハラマラソンに出た全員が全員、自分が一番苦しんだと思っているし、自分が一番楽しんだと思っている。 」
その通りだ。心からそう思う。参加した我々にとってサハラマラソンとは如何なるものだったかを見事に表している。
H田さんを見送り、我々も出国手続きを行う。
手続きは問題なく終了し、搭乗口までの土産物屋で手元に残っていたユーロとほぼ同額のワインを購入。
このワインを使って後日、馴染みのお店で親友とともに祝杯を挙げた。
搭乗口に行くとK池さんがいた。無事到着されていたようだ。
そのうち、搭乗の案内が始まり飛行機内へと向う。
行きの便と全く同じ席に座る。出発を待っていると、初老に近い男性搭乗員が私の席の前で立ち止まる。
見ると、頭上の荷物収納棚に入れた私のバックパックを見ながら何か呟いている。彼は驚いた顔で私に尋ねる。
「 まさかサハラマラソンに出たのか!? 」
そうだと答える。
「 完走したのか!? 」
ドヤ顔でそうだと答える。なんだか嬉しくなってきた。
彼は私に賛辞を述べ、何km走った、何人出たんだと質問を続ける。
更に近くにいた他の搭乗員を呼び、こいつサハラ出たんだってみたいな話をしている。
その光景を見て、このとき初めて完走の実感が涌いてきた。
完走した後の事は考えていなかったが、彼の驚嘆と賞賛を受けるに悪い気はしない。
「 こりゃ帰国したら当分は話のネタに困らないかもな・・ 」 そんなことを考える。
そしていよいよ飛行機が飛び立つ。
5年前はもう2度とこの国には来ないだろうと考え、別段名残惜しくもなかった。
が、今は違う。
ビートルズの「 Get Back 」を聴きながら、再訪を心に決めた。
4月16日
・ただいま
午前8時。飛行機は無事、関西空港に降り立った。
入国手続きをし、スーツケースを受取り税関のチェックを受ける。
チェックを終え、到着口に出ると同じ機だったNさん(完走直前で一緒になった彼)の会社の同僚が大挙して出迎えに来ていた。
同僚らに紹介され、挨拶を受けている目の端で、K池さんがエスカレーターで駅の方に向っているのが見えた。
Nさんに別れを告げ、K池さんを追いかける。
駅のホームで追いつき、特急列車で広島に帰る彼に別れとお礼を告げる。彼は笑顔で「 今後ともよろしく。 」と応えた。
K池さんを見送り、私は別の列車に乗り込む。もうこの頃には早く家で寝転がり、くつろぎたくて仕方がなかった。
長い長いフライトモードから解除したiPhoneには沢山の祝福のメッセージが届いていた。どうやらワルザザードで送った完走報告は無事届いていたらしい。
まだ結果を知らせていなかったり、そもそも参加を告げていなかった友人らに報告を送る。
私のSNS嫌いを知っていた友人はFacebookを始めたことの方に驚いたりしていた。曰く”変わったね”と。
そうかもしれない・・。このときはまだ何がどうとは上手く言えなかったが。
乗り換えを挟み、1時間少々して地元の駅に帰ってきた。
駅のコンビニでスナックの類いを買い、いよいよ自家に向う。
そういえばオーバーナイトステージの後、食べたくて食べたくて悶絶したヒレカツを、帰宅第一夜の食事としてリクエストしておいた。
メッセージは届いているかな?今はそれが楽しみだ。
我が家は農業を営んでいるのだが、駅から自宅への道中に野菜の直売所を設けている。そしてそこには母が常駐している。
スーツケースを引き、駅から10分程歩いた頃、その直売所が見えてきた。母の姿もある。
ポケットに忍ばせておいた完走メダルを首にかける。
スーツケースの音でこちらに気づいた母に
誰よりも私の身の心配をしてくれていた母に
メダルを掲げ、「 ただいま。 」と告げた。
エピローグ
第29回サハラマラソンから1月半が経った6月1日早朝。私は和歌山県新宮市にある熊野速玉大社へお礼参りに訪れた。
画像[添付画像。14日 パトリック.jpg]
丁度1年前、この社で牛王宝印符を分けていただきサハラマラソンに関する起請を立てた。所謂起請文である。
この年にモロッコの隣国で起きた人質拘束事件、サハラマラソンとほぼ同時期に開催されるボストンマラソンでの爆弾テロ事件。
もしかしたらサハラマラソンでも似た様なことが起きるかもしれない。
そう考え、半端な気持ちで参加するのではないと示すため、また有事の際に自分はどうするつもりなのか、どうして欲しいのか、
見苦しくならないよう身の処し方を書き記しておいた。
同じものを2枚書き、1枚を自ら携え、もう1枚を母に預けた。
この事を知るのは母と親友の2人だけだったが、今は念願無事に叶うところとなり、もう構わないだろうと思いここに記す。
そして今日の目的はもう一つあった。新たな牛王宝印符を分けていただくためだ。
薄々感ずいていた方もいらっしゃるだろうが、オーバーナイトステージでトップ集団に抜かれたあの日、最終ステージで同じ日本人選手に抜かれたあのとき。
私は再戦を決意した。
彼らに抜かされたのが悔しかったからではない。彼らは自分とは別の競技をしている。それが悔しかったのだ。
”まだ私の知らないサハラマラソンがある”そう思った。
次回の第30回サハラマラソンに出場して完走することは今回ほど難しくはないだろう。その為の術も経験もすでに得ている。
だが出場したところで恐らく記録や順位はそれ程は変わらず、結局同じことの焼き直しになることは目に見えている。
ならば数年間しっかり練習し”やれる”と確信したそのときに、上位とは言わずともせめて走って完走できると確信したそのときに。
満を持してもう一度サハラマラソンのあの舞台に戻りたいと思う。
今日分けていただいたこの牛王宝印符はそのときのためのものだ。
そしてもうひとつ。サハラマラソンに行くまでは知らなかったが、どうやら世界には似たようなアドベンチャーレースが幾つもあるらしい。
これはそのときにも活躍してくれるであろう。
惹かれ憧れ、ただただ突き進んだサハラマラソン。
私の人生に確かな足跡と彩りを与えてくれた。
そしてそれはこれからも続いてゆくことだろう。
- お し ま い -
画像[\全画像\StageCharity 7.7km\_DSC0308.JPG]